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足利 尊氏



ホームページ作成にあたって


行道山浄因寺参道にて撮影

0. 「足利の歴史」をまとめてみてみようと思い立ち…

 私は足利市民です。であればこそ一念発起し足利に関わる源姓足利氏の歴史について、様々なホームページや書籍を参考に、まとめてみる事にしました。
 その過程で"通説"と呼ばれる見解の無責任さに触れる事になりました。例えば次の5つの話題…
● 足利尊氏は足利に来た事は無いという話
● 足利は太平記の里では無いという話
● 源姓足利氏は足利義兼以前から住んで居たという話
● 足利学校は日本最古の学校であるという話
● 足利義兼は足利義康の嫡男だったという話
 調べれば調べるほど、「なんでそう言われているの?」と疑問になってしまう話ばかり。
 まずは、次の項にて手短にそれがどんなに変な話か書いてみます。
 この「疑問」こそが、私にこのホームページを作らせる糧となったのですから…

0-1. 足利尊氏は足利に来た事は無いという話

 この説が最も自虐的で荒唐無稽な暴論と感じる話なのですが、足利市民の多くもこの説を信じています。また私もこのホームページの作成初期にはこの説を信じていました。

 この説は、多くのホームページに類似の記述があります。だいたいが「鎌倉幕府内で北条一門に次ぐ有力諸侯・足利氏の嫡男が鎌倉以外で暮らす筈が無い」と書かれています。しかし実際には、尊氏は13歳頃まで嫡男では有りませんでしたし、その上、北条氏の娘を母に持たない尊氏は、父・貞氏が死ぬまで家督相続者として指名されてさえ居なかったと言われています。
 また「尊氏の天下取りの戦いに主力は尾張・三河の兵団であった」事からも「足利とは縁が薄かった」と断じられますが、これも大きな勘違いです。尊氏が鎌倉幕府に叛旗を翻した「元弘の変」では、当初尊氏は反乱鎮圧の命を受け上洛していました。「尾張・三河の兵団」は上洛する尊氏にとって最も近くて都合の良い兵站基地だったのです。当時、兵士は半農半士(半農半武)であり、農閑期に戦を済ませ自らの土地に戻らなければなりません。ゆえに兵にとっては遠征など迷惑な事この上なく、それを強要などすれば反乱の種になってしまうのです。
 では、足利の民は尊氏の戦いに参加しなかったのかと言えばそれも違います。後に鎌倉を陥落させる新田義貞の軍勢は挙兵当初7000騎程の軍勢でしたが、尊氏の嫡男・義詮が合流したことでその勢力は20余万騎にまで膨れ上がったと「梅松論」に記されています。つまり、足利および足利近辺で足利氏の影響下に在った御家人や武士団は「元弘の変」において鎌倉攻めに参加しています。
 その後それらの武士が足利直義の配下に組み入れられた為、尊氏とは歴史的に疎遠となってしまった印象があるだけです。
 更に加えれば鎌倉時代末、足利では鑁阿寺本堂の再建が行われています。記録によれば尊氏の祖父・家時が発願し、貞氏の代に至って完成しています。それほどの大工事を行うほど宗廟の地への思い入れは強いのです。他にも、その貞氏の幼少期・足利家の執事の職にあった高(こう)一族の所領も足利には多く存在しており、その一族の筆頭者であった高師直は尊氏と共に戦い抜いています。
 まともな傍証さえ無い状況で「足利尊氏が足利に来た事もない」と断言するのなぜなのかと疑問を持たずには居られない通説のひとつです。

0-2. 足利は太平記の里では無いという話

 この説も足利市内で時折耳にしますが、これは説などという話題では有りません。
 足利市民には、このようなネガティブ・キャンペーンに踊らされないよう忠告申し上げます。

 太平記というのは、作者も成立時期も不詳であり、後醍醐天皇の即位から細川頼之の管領就任の頃までのおよそ50年を記した軍記物語です。様々注釈や考証などが与えられ、また時代の都合により人物評価なども変遷しています。
 歴史的には今川了俊著作の「難太平記」が有名であり、近代においては吉川英治の「私本太平記」が著名です。NHKの大河ドラマ「太平記」は吉川英治の「私本太平記」を原案として作成されており、足利市民にとっての尊氏像は、この作品の尊氏そのものであると思います。

 さて、とあるホームページに「足利は太平記の里では無い」という記述がありました。
 たしかに「私本太平記」の第一巻「置文」の章を読めば、尊氏は足利荘に暮らし、鑁阿寺において家時の置文を披見したと創作されていますが、他に足利が描かれる場面は見当たりません。
 しかしそれを以て「足利が太平記の里では無い」と断じるのは些か主観に過ぎているようです。
 
 太平記に記された50年ほどの時代、確かに足利を舞台にした合戦などの記録はなく、文字通り太平な期間であったようですが、当時の足利荘は都に通じる東山道と鎌倉に通じる鎌倉道が交わっていました。中先代の乱の後、建武政権に叛旗を翻した尊氏に対抗すべく鎮守府将軍であった北畠顕家は、2度に渡って赴任地である陸奥国の多賀城から上洛しています。当時の交通事情を考えると、奥州方面から大軍を移動させるには、足利近郊を通過する必要がありました。
 また時代を下り、足利氏内部の争いである「勧農の擾乱」においては、足利荘の小領主は高氏一族→直義派氏族→反乱→尊氏派氏族と変遷してゆきます。つまり、戦場にこそなりませんでしたが、足利の民ももまた歴史の生き証人としてこの時代を創っていたのです。

0-3. 源姓足利氏は足利義兼以前から住んで居た?という話

 足利荘は源義家の子・義国と足利を開拓した領主・藤姓足利氏の協力により立荘されましたが、その後長らく足利荘(足利郡)は藤姓足利氏の支配下にありました。やがて「治承・寿永の乱」の中で藤姓足利氏は頼朝によって滅ぼされ、その後足利は義兼によって治められるようになりました。

 つまり、源姓足利氏の名前は保元の乱の頃(初代・義康)の代から有りますが、足利の支配は二代・足利義兼によってはじめられます。
 従って鑁阿寺を初代・足利義康が作ったという話(時々見掛けます)は、虚説です。

0-4. 足利学校は日本最古の学校であるという話

 言葉遊びの問題なのかも知れませんが、足利学校は「近代まで活動していた学校機関」の中では最古の組織ですが、「日本で一番初めに創られた学校」では有りませんし、「日本で最も古い時代に創られた学校」でもありません。つまり、日本最古という言葉は不適切です。
 そもそも近代まで受け継がれた、足利学校の組織そのものは上杉憲実により創られたものであり、それ以前の学校に類する機関との継続性に関しては疑問が残されています。 
 なお学校の目的も、その歴史背景を鑑みた場合、現代の学校のような学術教育の場ではなく、儒学による民衆教化の側面が強かったと個人的に考えています。
 足利学校の意義に関して、足利市などでは「古さという歴史性」と「学問」という点に固執した宣伝を繰り返しますが、儒学のふるさと「中国」における「儒学」の歴史的な役割に比べるとその「足利市の広報」は、足利学校に対する軽薄な印象を与えかねないと危惧しています。

0-5. 足利義兼は足利義康の嫡男(相続者)だったという話

 これもネットや足利市史などで調べた限り、何の確証もない想像のようです。
 実際には、兄二人が共に戦死した結果、足利の名跡を相続したというのが妥当なようですし、それ以上に、(別項にも記しますが)足利義兼なる人物が実在したか、最後には生入定したのか、誰も確証を得ていません。決して先人を貶めるわけでは有りませんが、同じ時代、頼朝の兄弟に対しても同様の疑惑が有る事から一つの可能性を示すだけです。
 この件は、樺崎寺で大規模に掘削調査を行えば明らかになると思います。

1. そもそもの動機 … どうして足利尊氏像を飾っているのか?

 話題は変わります。
 昔、民主党の蓮舫議員の「世界一じゃなきゃダメなんですか?」と云う一言でスパコン(スーパーコンピューター)の開発予算を削減するという恐ろしい事件が起きました。これは政治に関しても、科学・技術に関しても無知な議員が重要性を理解できずに判断した恐ろしい出来事でした。
 それは国益と国民の安全という視点で考えれば、平成27年に話題となった「安保関連法案」以上に直接的に国益と国民の安全に関わる事であり、一つ間違えば日本が破滅的な時代に突入したかもしれない大事件でした。
 昔も民主党の蓮舫議員のような無知を自覚していない政治素人が政治を壟断し、時代を混乱と殺戮の渦に叩き込んだ事件がありました。
 後醍醐天皇による「建武の新政」です。
 その無能な政治指導者が政治を玩具にした時代を批判出来ない一時期、その政治混乱の元凶を駆逐した足利尊氏や足利氏に対して「逆賊」という不当な評価がされていた事に足利市民として怒りを感じています。
 
 その足利尊氏は征夷大将軍となり室町幕府を開きました。現在、鑁阿寺の前、大門通り、松村写真館の正面に銅像が飾られています。
 ところが足利市民の多くは、尊氏公は足利で誕生して居ないどころか、当地を訪れた事さえ無いだろうと考えています(私もでした)。それなのに何故、尊氏公の銅像を飾るのでしょうか?これは、観光客を謀る姑息な手段では無いかと怒りさえ感じていました。
※ 本文に記載しましたが、筆者は現在、尊氏は少年時代に足利に居住していたと思っています。

 そもそも足利の価値は、征夷大将軍となった足利尊氏が全てでは有りません。「ローマは一日にしてならず」の言葉の通り尊氏が将軍となり得たのは、源義国に始まる足利氏の一族が足利の地で培った基盤や人材が有ったればこそであり、それは日本という国が現在の形となる為に必要でした。
 平安末期から鎌倉初期に足利に根を下ろした源姓足利氏。やがて全国規模の組織を有する程に成長し足利尊氏の登場を以て室町幕府を開きます。その後も足利発の行政組織や知識、技法が足利学校出身の行政官僚やその子孫により運用され日本の土台を支え続けます。
 足利の歴史とは、日本を支えた基盤だと考えています。

 足利尊氏の存在など足利氏の歴史の一コマでしかありません。足利市や足利市民には、もうすこし足利氏全体を見渡して足利の価値を考えてほしいと思っています。
 このサイトでは、如何に足利氏の存在が重要であったのか、そして一時期といえども足利氏を逆賊とした歴史評価がいかに間違っていたのかを念頭に置いて記載してゆきたいと考えています。

 至らぬ内容ではありますが、ご意見などお寄せいただければ励みにもなります。
 よろしくお願いします。

2. 足利氏の歴史ホームページ作成の方針

・ 足利氏の歴史について出来るだけ時系列を明確にして記載しました。

・ 年号は西暦を主として記載しています。可能な限り併記します。

・ 複数の考証が示された事跡は、"異説あり"等の表現を交えて紹介しています。

・ 資料原文に対して考証を加えないように配慮します。
  推測を交える場合は”思われる”等の推等の推測を示唆する文言を挿入しています。

・ 時系列に基づく蓋然性(がいぜんせい)や必然性を重視します。例えば、『後三年の役の当
  時、足利に立ち寄った源義家と藤姓足利氏の娘の間に生まれた子供が源義国で有る』
などは、
  義国の没年齢、兄弟親戚関係を考えると不自然です。
  このように昔から語り継がれていながらも、誰でもわかる明らかな嘘は記載しません。


・ 一方、足利市借宿町にある真言宗円満寺の寺伝にあるような『源頼義・義家親子が後三年の役
  にて奥州下向の途中、当地立ち寄り不動明王を安置した』
などは、円満寺の立地が八幡、源氏
  屋敷の地域に程近いなど、地理的な蓋然性が有り記載します。


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