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2.平安末期・足利氏のはじまり

■ 藤姓足利氏と八幡太郎義家

 平安時代末期、白河院による院政時代の最盛期のはじまりの頃、下野国足利は、藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏が活動の拠点としていました。 後に足利尊氏を生み出す(源姓)足利氏は、いまだその姿を歴史の舞台に登場させていません。
 坂東(関東)では、墾田永年私財法に基づく墾田開発が進み、その開拓地を有力者に寄進し荘園化する「荘園公領制(歴史学者・細野善彦氏の提唱)」へと移行してゆきます。なかでも前九年・後三年において活躍した源義家は、有力者への寄進を取り次ぐ「受領」として地方武士からの人気が高く、多くの開発領主は競って土地を寄進したと言われています。その為、武士勢力の拡大を危惧した白河院により、所領の寄進を受ける=受領となる事を禁じられ、源氏は一時、逼塞を余儀なくされています。

1051年〜1062年 源頼義(陸奥守)が奥州に赴任し、前九年の役が始まる
前九年の役に源義家が従軍
1056年 源義家 奥州追討の 戦勝祈願の為足利の八幡宮を勧請 ※1
1057年 黄海の戦いで敗北する
1062年 清原氏の参戦により前九年の役に勝利する
頼義・義家凱旋の途次足利に滞留 ※1
1063年 義家は出羽守に任じられるが越中守への転任を希望する。
(出羽国は清原氏の本拠地)
1070年 義家が下野守に任じられる

● 延久の荘園整理令
 源義家が下野国守に就任(西暦1070年)する前年(西暦1069年)に始まる「延久の荘園整理令」は、書類などによる証明が曖昧な荘園を収公する目的で発せられ、他の「荘園整理令」に比べ徹底して行われました。その結果は、一定の成果が有ったとされています。(荘園として承認された正式な書類が備わって居ない場合、有力寺社・公卿の所有で有っても収公対象とされました。)この法令の執行は国司により行われました。

1073年 白河天皇即位
1075年 義家の父、頼義死没
1079年 義家が美濃国で源重宗を追討
1081年 義家が検非違使と共に園城寺の悪僧を追捕
白河天皇の石清水八幡宮行幸に同行
1082年 源義国誕生説@(異説あり…当誕生年では義家3男)
1083年 富士山が爆発
源義家、後三年の役が始まる。
源義忠誕生
義家奥州追討の為下向。先例により足利俊綱※2の館に入る。※1
1084年 義国足利氏を名乗る。※1
源義国誕生説A(異説あり…義家4男)…本文ではこの生年を採用する。
1087年 源義光、官を辞して奥羽まで義家の救援に向かう ※3
源義家、金沢の柵にて清原武衡、清原家衡を破り後三年の役が終る
白河天皇退位(上皇へ)・堀河天皇即位
1088年〜 陸奥守を罷免される
後三年の役が私戦とされ、義家は昇殿を差し止められる。
1091年 義家が弟義綱と河内国の所領の領有権を争い兵を構える。
荘園の寄進を禁止される。
源義国誕生説B(「1082年説あり…義家4男)
1098年 義家が昇殿を許される。
藤姓足利氏・行国 蓮台寺山に城を築く ※1

 ※1 足利郷土大年表より参照しています。それ関する根本資料は不明です。
 ※2 ”足利俊綱”の記載は誤記の可能性がありますが、原文のまま記載しています。
 ※3 終戦後、源義光は、常陸介、甲斐守を歴任し、常陸国、甲斐国に勢力を扶植させます。
    常陸国では常陸平氏の一族から妻を得て土着し、佐竹氏を興します。

 藤姓足利氏と源氏との関係は、源義家が下野国国司の時代に藤姓足利氏から所領の一部を寄進され、「受領」と「在地領主」の関係になった事にはじまると考えられています。 その源義家の四男(または三男)である源義国は、後に義家から上野国八幡荘を伝領され坂東(関東)における所領経営を開始します。その義国こそが足利尊氏新田義貞の共通の祖であり、北関東に源氏の血筋を根付かせた人です。

源義家(八幡太郎義家)

■ 藤姓足利氏 

 藤姓足利氏は藤原秀郷の子孫として、源氏に先立ち北関東地域に勢力を扶植させていました。
 藤原秀郷は元々佐野唐沢山城を本拠地としていました。その子孫にあたる淵名兼行が上野国淵名荘(現在の群馬県伊勢崎市近辺)に進出し、その子成行の代に足利に拠点を移し(藤姓)足利氏を名乗りました。成行の後継とされる足利成綱は早逝してしまいますが、成綱の従兄弟にあたる足利行国が伯父である成行を補佐して足利の領地経営に携わります。(足利郷土大年表より)

※ この時代、藤姓足利氏と源氏との関係が平和的であった事が「足利郷土大年表」からも読み取れます。また行国の名が叔父であり足利氏当主である成行と、受領である義国からの偏諱を受けた名であると推測出来る点からも、両者の関係は良好であった事が伺えます。なお、俗説ですが、足利成行の娘が義国の妻となり、長男義重を産んだという伝説もあります。その成行は西暦1118年に、行国は西暦1126年に逝去しました。
 それ以前に足利家綱が家督を相続していますが、成行・行国と家綱との血縁関係は今尚不明です。
 家綱の時代から源氏との関係は次第に悪化する一方、藤姓足利氏の勢力は増し、元々の本拠地であった佐野にも足利家綱の一族が入り佐野氏を名乗ることとなります。

■ 源氏(源義国) 

● 義国の所領地 
 義国が義家から伝領したと考えられている上野国の八幡荘は、現在の高崎市西部に位置する地域です。他にも源氏は、北関東地域に数多くの所領(恐らく「八幡」と名の付く土地はそうした由緒を持つと思われる)を有していました。義国は当初(少なくとも義家の存命中)源氏の中で、それら北関東の所領を統括する立場にあったと思われます。その立場が即ち相続(伝領)であったのか定かではありませんが、その地域の源氏組織を掌握していたことは、その後の経緯からも確かでしょう。
 現在の足利市にある「八幡」という地は、近くに「源氏屋敷」という地名を残している点や、数多くの伝承などから義家の所領であったと考えられ、後に義国が藤姓足利氏と共に足利荘を成立させた経緯などから「義国が義家から伝領した」と推測されています。
※ 上野国八幡荘は上野国国府に近く、その重要性から考えた場合、義国流源氏にとっての本貫地は上野国八幡荘と考えられていたと思われます。

 その源義国は、源姓足利氏にとって最も重要な存在です。
 義国は鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した「新田氏」と「足利氏」の共通の祖で有ると共に、足利荘を成立させ新田荘を開拓し、両氏の名の由来となる土地を開いた時代の当主です。
 義国は都で騒動を起こし、勅勘を蒙り足利に蟄居したと言われますが、終焉の地は現在の太田市岩松であったとも言われており、現在も義国の謹慎地については意見がわかれます。

● 西暦1101年 義国はじめての坂東下向
 義国の初めての坂東下向は、西暦1101年の”常陸国佐竹氏の討伐”を目的とした下向が記録に残る最初です。(この時、足利を訪れたのかは断定出来ません。)
※ 下の写真は源義国や、その父義家や、祖父頼義も下向の折には通ったかも知れない、東山道の道筋にあるの坂です。左が吾妻坂(現在は東坂)、右は二重坂(七丁目切通しの南)です。
なお、この二重坂は「西暦1733年に開削」されたものですが、この場所は元々が山の谷間・地峡となっており、掘削以前から市街地と今福町との往来に利用される街道が有ったと考えられます。

 
 討伐相手の佐竹氏は、義国の父源義家の弟、源義光を祖とする一族です。義国とは同族(叔父・甥の関係)です。義光は西暦1083年(永保3年)〜1086年(応徳3年)にかけて東北地方で繰り広げられた戦乱『後三年の役』の後、常陸国の依上保の地を譲り受け勢力を拡大していました。
※ 佐竹氏の初代および成立時期については諸説あります。一説に西暦1130年代という記述も有ります。その場合、西暦1101年の義国の佐竹討伐、および後年の常陸合戦(西暦1106年)と年代が合致しません。この佐竹氏など源義光に連なる源氏の一族は、義光流源氏と呼ばれています。

● 西暦1101年〜西暦1106年 佐竹氏(義光流源氏)との抗争
 義国流源氏と義光流源氏の対立は、西暦1101年の勅命による佐竹討伐に始まり西暦1106年の常陸合戦の後、勅命により義国・義光への捕縛令が出されるまで続きます。前半は佐竹義業・昌義親子、後半は義光との争いと言われていますが、継続的に戦い続けていたわけでは有りません。
 また一連の争いは、下野国の在地領主(藤姓足利氏の一族・他)と常陸国の在地領主(大掾氏、常陸平氏)との間の争いと言う一面と、源氏一族内における叔父(義光)と甥(義国)の坂東に於ける勢力争いという面もありました。
※ 足利庄鑁阿寺(山越忍空 著)などでは、”佐竹昌義を討つ”と記載されていますが、佐竹氏側の資料などでは昌義の没年はもっと後になっています。この年代、義国は足利近辺に在住していたと言う記述が多く見られますが、確実な資料は見当たりません。

● 西暦1109年 義国への捕縛令と源義家の死
 常陸合戦を引き起こした責任から義国・義光への捕縛令が発せられました。そしてそのひと月後、義国の父であり、義光の兄でもある源義家が死去します。
 なお、この捕縛令が執行されたのかについては記録が有りません。

■ 両足利氏に訪れた転機(浅間山の噴火) 


 西暦1108年の浅間山の大噴火
 30億トンと推定される噴出物を伴う大噴火。上野国(現在の群馬県)一帯には噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらしたと『中右記』に記されています。
 京都と奥州をつなぐ東山道も交通困難な状況になりました。 

 義国への捕縛令が出される前年、西暦1108年に浅間山が大噴火しています。
 「足利郷土大年表」によれば、噴火の年源義国は足利行国を同行し上洛しています。その目的がいずれにあったのか不明ですが、それから3年後の西暦1111年の8月21日、「長秋記」の記述に、足利家綱の「都の相撲節」における活躍の記載があります。都に藤姓足利氏の拠点は有りませんから、西暦1108年の上洛の際には家綱も伴い、源氏の郎党として屋敷に住まわせ奉公させていたのかも知れません。いずれにしても、この頃まで両者の関係は比較的良好であったと思われます。
 しかし3年後の西暦1114年、その家綱が上野国衙領の雑物を押しとったと告発されています。この事件では源義国も事情聴取されますが、その際「足利家綱は郎党ではない」と言い切っています。足利家綱はこの前後、藤姓足利氏の当主の座に就いてたと考えられています。

1108年 浅間山の大噴火
平正盛・忠盛、源義親(源頼朝曾祖父)を討伐する。
義国上洛、藤姓足利氏・行国これに従う。※1
1114年 新田氏の祖、義重が義国の長男として誕生する。※4
検非違使より、為義郎党、藤姓足利家綱が訴えられる。
為義、家綱を義国郎党と主張し、義国と争論する。
1126年 足利五郎太夫栗崎行国卒(三宝院に墓所)※1
1127年 源姓足利氏の祖となる義兼の父、次男義康誕生 ※5
源義光、義忠の遺児、経国により討ち果たされる

※1 足利郷土大年表より参照しています。それ関する根本資料は不明です。
※4 母親は上野介藤原敦基の娘と記されますが、藤姓足利氏の娘を敦基の養女として娶ったとも言われています。これに関して山越忍空著作の足利庄鑁阿寺では、義国が藤姓足利氏成行の娘を娶ったのであろうと記しています。ただし義重の生母とは記していません。
※5
 母親は源有房の娘。京都で生まれたと思われます。この前後、義国は在京と推測。


 西暦1108年の浅間山の噴火では、西上野から現在の太田市あたりまでの一帯が広く火山灰で覆われ、農地は壊滅的な打撃を蒙り、農民の流民化を引き起こしました。噴火は直接的被害ばかりではなく、様々な間接的な問題を生じさせます。耕作民(農民)の被災・流出による農業生産の低下、逆に被災者の流入先では、それに伴う諸問題が発生しています。義国が伝領していた八幡荘周辺はそうした被災地の只中にありました。
※ 現在の前橋市で発掘される噴火堆積物の厚さは15cmにもなります。当時はそれに数倍する厚さの火山灰が田畑を覆っていたと考えられます。
 一方、距離・風向き・地形等の理由からか足利の被害は比較的軽微であったようです。その結果、上野西部の被災者は当時の交通要路である東山道を通り東進し、その多くが足利に流入したと考えられます。
(現在、足利の八幡町北西部には「借宿町」という地名が残されています。従来(現在も)この地名の由来は、源氏の軍勢が陣を張り、「仮の宿と」したからと言われていますが、被災民が仮の宿とした場所だから付いた名前という方が説得力が有るでしょう。)


 当時、足利地域の源氏権益を取り仕切っていたのは、義国流源氏配下の高階氏です。
 足利に流入する被災農民への救済策として、耕作可能な耕地を割り当て墾田開発にあたらせる事となり、被災農民の多くが源氏の配下として梁田郡や新田郡での農業活動に従事することになります。その結果、受領層に位置しながら、次第に開発領主的な色彩を帯びてきた義国流源氏と藤姓足利氏は、利権が衝突する間柄となります。

※ 実務上の問題は高階氏が取り仕切り、藤姓足利氏と緊張関係にあった相手も源氏ではなく高階氏です。やがてそれらの実績から、高階氏(=高氏)は執事職として(源姓)足利氏内で重きを為す事になります。


■ 源氏の内紛

 浅間山が噴火した翌年(西暦1109年)、都の源氏宗家で大事件が発生します。源義家の跡を継いでいた源義忠が何者かに暗殺されました。
 義忠は義国の同母兄であり、気性が激しい義国に対して穏やかな性格で、兄弟は非常に仲が良かったと言われています。暗殺事件の当時、「足利郷土大年表」に従えば、義国は行国と共に在京中であった可能性が高いと考えられます。
 源氏は、歴史的に見て同族間の骨肉の争いが多い一族でした。この事件においても、犯人として浮かび上がった人物は叔父である源義綱の一族です。その義綱一族は義忠の甥(諸説あり)である源為義によって責め滅ぼされ、その結果、為義が源氏の棟梁の座を継承しました。
 なお、義忠暗殺事件の真犯人は、叔父の源義光であった事が後に判明します。義光は義忠の長男、(河内)経国によって討ち果たされたと言われていますが、この仇討ちは河源記にのみ記されており、事実である確証は示されていません。

1101年 源義国、常陸佐竹昌義の討伐の為に坂東に下向す。
1006年 常陸合戦源義国と源義光の争い)。義国勅勘を蒙る。
義家、義国捕縛令を受けるも7月に逝去
源家家督は三男の義忠が相続
1107年 堀河天皇崩御・鳥羽天皇即位
1108年 浅間山の大噴火
平正盛・忠盛、源義親(源頼朝曾祖父)を討伐する。
1109年 義国の兄、源氏惣領であった義忠が暗殺される。
叔父である源義光の策謀とされる。
1118年 河内経国により武蔵野国・河内荘成立
1121年 平正盛死去(平清盛祖父)
1123年 鳥羽天皇退位(上皇へ)・崇徳天皇即位
1127年 源義光、義忠の遺児、経国により討ち果たされる

 源義忠暗殺事件に関して、最も身近な存在である義国が在京中でありながら、先に朝敵として討たれた源義親の忘れ形見、為義が仇を討ち、源氏の棟梁の座に就いた事は非常に不可解です。
 一説によれば、為義は義忠の兄弟であったという説(つまり義国とも兄弟)があります。また、義国は早くから坂東の所領に下向しており、義綱討伐に必要な兵を糾合出来なかったという考え方も有ります。いずれにしてもこの後、両者の子供達もまた、源氏の定めに従い戦う事となります。

足利氏という名前

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 地図の赤丸で示す場所が足利であり、源姓足利氏の名前の由来地です。後に源義国の子・義康が足利を伝領し、源氏としてはじめて「足利」の姓を名乗ったとされています。
※ 源氏一族にとっての本名はあくまでも「源」です。したがって義康が足利義康を名乗っていても、本当の名前(朝廷に名乗る名前)は源義康です。

 領主が朝廷に名乗る名前(源など)の他に、所領の“名”を自らの“名”に冠するようになったのは、平安中期に確立した名体制に由来します。“足利”氏を名乗り始めた“義国流源氏”の子孫は、足利を本貫地として生まれた一族であるという主張をその名前に込めていたという事になります。

 なお、足利氏の初代と位置付けられる義康は、終生「足利義康」を自称せず、「源義康」として通したと言われています。これは兄義重(新田義重)も同様で、終生「源義重」を名乗ったと言われています。では父親である義国はどうであったかというと、彼自身は晩年「足利式部太夫」と名乗ったと記されています。しかし、それと同時に荒加賀入道と号していたとも言われています。
 朝廷に対しては源姓、院に対しては足利、私生活では荒加賀入道など相手により名乗りを変えていたのかも知れません。

名体制

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