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足利の石垣


 板倉の養源寺にある石垣


三宝院の石垣と逆川


法玄寺前の逆川


徳正寺の石垣


樹覚寺前の逆川

4.南北朝時代・足利氏の活躍

■ 鎌倉幕府・執権北条氏の衰退
 西暦1284年4月20日、2度に渡るモンゴル帝国の侵攻を退けた執権・北条時宗が病没し、北条貞時が第九代執権に就任しました。
 貞時は、得宗家主導の専制政治の強化に努め、西国の守護を北条一族で固めて西国支配を強化してゆきます。また西暦1297年には借金に苦しむ御家人救済の為に永仁の徳政令を発しますが、経済が混乱し更に御家人を苦しめる結果となりました。
 このような北条氏の強権政治と失政により民衆や武士の間に不満が鬱積し、鎌倉幕府は次第に信望を失い、源氏の血筋である足利氏への期待が高まってゆきます。

● 足利家時と鑁阿寺の置文

 北条時宗が病没した同じ年(西暦1284年)の6月25日、足利氏六代目・足利家時(西暦1260年生まれ)もまた自ら命を絶っています。
 従来、家時の自害に関して、西暦1285年に発生した「霜月騒動」に連座して自害したとされていましたが、その後の研究の結果、現在は「霜月騒動」以前の西暦1284年6月25日に自害したという説が有力とされています。
 家時自害の真意については諸説ありますが、最も有名と思われるのは足利の鑁阿寺に伝わったとされる「置文」の伝説です。今川貞世(今川了俊)著作の「難太平記」に記載された逸話です。
 家時が、八幡太郎義家が書き残したとされる「七代後の子孫に生まれ代わり天下を取る」という願いを叶えられない我が身を恥じ、「命を縮める代わりに三代後の子孫に天下を取らせたまへ」と書き残して自害したという伝説です。
 このうち家時が残した「置文」は、後に高師秋により足利直義(尊氏の同母弟)に差し出され、感激した直義は高師秋に写しを渡し、原本を預かり置いたとされます。
※ 足利尊氏、直義共に足利家時の3代目の子孫です。

● 足利貞氏と高(こう)氏

 家時の跡を継いで足利氏七代目当主となった足利貞氏(西暦1273年〜西暦1331年)が当主の座に在った凡そ47年の間に、幕府では八人の執権が誕生し衰退の色を濃くしてゆきます。一方、足利氏は家政機構も充実してゆき、貞氏の下で安定した時期を迎えています。
 貞氏の治世の初期、幼少で家督を相続した貞氏に代わり、高(こう)氏が家政を切り盛りしています。高(こう)氏は源義国に従い坂東に下向した高階氏の末裔であり、代々足利郡・梁田郡内に多くの所領を有する一族です。

 貞氏は西暦1281年に落雷で焼失した足利・鑁阿寺大御堂の再建を行い、また鎌倉・浄妙寺の再興も果たしています。(平成27年7月16日現在、足利市の公式ホームページには、「鑁阿寺大御堂の再建は、西暦1299年、足利家時の代に建て直された」と記されています。好意的に補足すれば、家時が着手した再建を貞氏が完成させたとなります。)
 貞氏により西暦1299年に再建された鑁阿寺大御堂は、現在国宝となっています。

● 鎌倉幕府の滅亡と後醍醐天皇

 後に征夷大将軍として室町幕府を開府した足利尊氏は、西暦1305年に誕生しています。
 誕生地については、京都府綾部市にあった上杉荘が有力ですが、少年時代どこで過ごしたのかについては詳細が不明です。尊氏が討幕の兵を挙げ歴史の表舞台に登場した時点から高師直をはじめとする高氏一族が側近として仕えている事から、少年時代を足利・梁田の地域でおくり、高一族と親密な関係を築いていたと推測されます。

 西暦1331年、後醍醐天皇(西暦1288年誕生、西暦1318年即位)は天皇親政を理想とし討幕の兵を挙げます(元弘の変)。しかし一旦は幕府の鎮圧軍に捉えられて隠岐島に配流されてしまいますが、その後、楠正成の活躍により幕府軍の弱体化が明らかにされると各地で討幕の機運が高まり、足利尊氏、新田義貞が討幕の旗を掲げて幕府に背いたことで後醍醐帝は討幕の願いを実現させます。
 討幕を成功させた後醍醐天皇は、天皇親政の理想を実現するため建武の新政を断行しますが、政治から武士を遠ざける政策をとった結果、社会は混乱し武士の間で不満が高まります。

年代 出来事 概要
1331年 元弘の変 後醍醐天皇が笠置で挙兵するが失敗し隠岐島に配流。
1333年 後醍醐天皇の再起 後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城
高氏(尊氏)追討の為に名越高家と共に上洛す。
  名越高家が戦死。
4月29日 尊氏、所領の丹波国篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げる。
5月7日 六波羅探題を攻略
鎌倉幕府滅亡 新田義貞・千寿王(足利義詮)鎌倉を制圧して幕府は滅亡
  千寿王 鑁阿寺に金銅の寶樓を寄進
建武の新政 6月に後醍醐天皇が「親政」を開始


 当時、朝廷は数百年にもわたり政治権力から離れ、一切の行政機構を持たず、貴族と称する無能な存在は行政に関するなんら知識・経験を有しては居ませんでした。それにもかかわらず社会を動かしていた武家組織を全否定してしまったたのですから社会が混乱する事は当然の結果でした。
 恐らく足利氏も朝廷に政権運営能力など無い事を承知上で討幕に協力したと思います。

 そうした状況下、北条孝時の遺児・時行が旧臣を中心に不平武士を糾合して挙兵し、一時、鎌倉の占領に成功します。それに対して尊氏は軍勢を率いて鎌倉を奪還し、その後も鎌倉に居座りつづけ、上洛命令を無視し独立の姿勢を示します。
 尊氏に対して朝廷は、新田義貞指揮の下、追討軍を鎌倉に差し向けますが、足利尊氏は箱根・竹ノ下の戦いで新田軍を撃破し延元の乱が幕を開けます。

           
年代 出来事 概要
1335年 中先代の乱 北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱。軍勢は鎌倉を一時占拠する。直義は鎌倉を脱出する際、護良親王を殺害している。
鎌倉を回復 尊氏は征東将軍として相模川の戦いで時行を駆逐し、8月19日には鎌倉を回復
尊氏の自立 尊氏は鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え、京都からの上洛の命令も拒む
延元の乱(建武の乱) 新田義貞の指揮のもと追討軍が鎌倉に向かう
箱根・竹ノ下の戦い 新田軍を箱根・竹ノ下の戦いに破ぶる
1336年 尊氏入京 尊氏入京。後醍醐天皇比叡山に退く。
豊島河原の戦い 北畠顕家と楠木正成・新田義貞らの攻勢により、尊氏京から退き、摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫する。尊氏は摂津に退き更に九州へと下る。
多々良浜の戦い 筑前多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒し勢力を立て直す。
湊川の戦い 尊氏再度上洛を目指す。
新田義貞・楠木正成の軍を破る
6月に京都を再び制圧
建武式目制定 建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言する。
南北朝分立 後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野に逃れ、独自の朝廷(南朝)を樹立した。

 これらの尊氏の行動から、戦前の日本史では「足利尊氏は逆賊」として扱われますが、現在は、その評価の間違えは認められているようです。
 建武の新政が後醍醐帝の妄想の類であった事は、同様に天皇親政を目指した明治維新と比べればわかります。明治維新では旧権力に在った有能な行政官(武士・平民)を用いて旧弊を除き、新しい日本を作り上げています。一方、建武の新政において後醍醐天皇は、武士を遠ざけ無能な一族、貴族、佞臣を重用し、その結果として武士層は不満を募らせて離反し社会混乱招きます。
 尊氏の行為は、この社会混乱の元凶である建武政権を打倒した救国行動です。
 本来、後醍醐天皇は後醍醐帝の権威を認めていた足利尊氏・直義と手を組み、足利氏が有していた軍事力と行政力を恐れるのではなく評価し取り込むべきだったのです。
 その上で足利軍を近衛軍とし、足利氏の行政機構を朝廷の行政機構とするような大胆な改革に取り組むべきだったのです。
 仮に「足利尊氏」が建武政権を打倒するという「火中の栗」を拾わずにいたならば、最悪、皇統はは断絶し、その後ポルトガル、スペイン、オランダなどにより日本は植民地化され、今頃日本人は日本語を話していなかったかも知れません。

■ 足利尊氏の戦い

● 室町幕府の創設と南北朝時代の開始

 その後、尊氏の曖昧な対応の結果、南朝政権が成立し南北朝時代が始まります。
 やがて後醍醐帝が崩御し、南朝政権も崩壊寸前までに追い込まれますが、ここで尊氏の弟・直義と高師直の幕府内の対立を切っ掛けとして「観応の擾乱」が勃発します。「観応の擾乱」は複雑な経緯を辿り、やがて尊氏と直義の対立という構図となり、最終的に直義が謀殺され終息します。
 この観応の擾乱の最中、一時的な劣勢を挽回するために尊氏、直義いずれもが南朝に帰順しています。その結果、南朝政権が息を吹き返します。
 観応の擾乱が終息すると弱体化した足利勢に対して南朝側は攻勢に転じます。しかし足利尊氏、義詮、基氏親子の奮戦により敗退させられ、以後逼塞する事となります。

年代 出来事 概要
1338年 室町幕府創設 光明天皇から征夷大将軍に任じられ室町幕府が成立する。
1339年 後醍醐天皇が吉野で崩御 尊氏 後醍醐天皇の供養のため下野中山郷を鑁阿寺に寄進
1348年 四条畷の戦い 吉野を攻め落として全山を焼き払う

■ 観応の擾乱・前半(西暦1349年〜1351年)足利直義と高師直の対立
 足利直義高師直の確執により生じた観応の擾乱は足利にも混乱を引き起こします。
 乱の勃発時点では優勢であった高師直の一派は、反撃に転じた直義一派に播磨光明寺合戦や摂津打出浜の戦いで敗北し、西暦1351年に高師直をはじめ多くの一族が謀殺されます。
 一方、高(こう)氏の勢力が強い足利荘では直義への反抗勢力が出現しました。そこで鎌倉府の足利基氏は、上杉憲顕(直義派)に奉ぜられ出陣。新田荘世良田に陣を敷きます。騒乱の後、高氏の派閥に属した者たちの所領を没収します。


年代 出来事 概要
1349年 観応の擾乱 直義が師直の襲撃を企てるが失敗し、尊氏邸に逃げ込むが師直の兵に包囲される。直義は引退を余儀なくされる。
鎌倉府を設置 直義に代わり政務を担当させるため尊氏の嫡男・義詮が鎌倉から呼び戻され、尊氏は代わりに次男・足利基氏を鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。
1350年 直義南朝に帰順 尊氏の庶子、直義の猶子である直冬が南朝方として挙兵。直義も京都を出奔し合流する。その後、光厳上皇から直義追討令が出ると、直義は南朝方に降り対抗姿勢を鮮明にする。
1351年 播磨光明寺合戦
摂津打出浜の戦い
尊氏軍は直義軍に相次いで敗北し和議を選択。
高師直は出家するが、殺害されてしまう。

 観応の擾乱・後半(西暦1351年〜1352年)〜
 足利直義と和睦していた足利尊氏は反撃に転じ、直義は自派の武将(桃井直常・斯波高経・山名時氏など)を伴い京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ入ります。その後、両者は薩埵山で対峙しますが、尊氏方の援軍として宇都宮氏綱らが箱根竹ノ下に到着すると直義らは壊走し、相模国の早河尻で決戦に臨むも敗北してしまいます。この戦いを薩埵山の戦いと呼び、降伏した直義は西暦1352年、幽閉先の鎌倉で死亡します。(尊氏毒殺説があります。)
 その後、足利荘を始め各地で直義派の蠢動が見られますが、高氏一族でありながら直義派として活動していた高師秋が帰参すると反抗は次第に衰えて行きます。
 尊氏は直義派の者たちから所領を没収します。
 帰参した高師秋は、尊氏から、先に基氏に没収されたと思われる福富(生河郷)、大久保(大窪郷)を与えられます。
 観応の擾乱の中で二つの有力派閥が次々に滅びた事から、被官の所領関係に混乱が生じます。


年代 出来事 概要
1351年 直義の京都脱出 和議の後、直義派と反直義派との対立が深まり尊氏は直義派の一掃を図るようになり、8月、事態を悟った直義は京都を脱出。
正平一統 尊氏が南朝と和議をはかる。
薩埵峠の戦い
相模早川尻などの戦い
直義追討の戦い。尊氏側の勝利。
  足利基氏 鑁阿寺に借宿郷を寄進
1352年 直義降伏 直義は浄妙寺境内の延福寺に幽閉される。
観応の擾乱の終わり(直義死去)
南朝の攻勢 南朝方が増長し、北朝方・足利勢力の一掃を画策する。
関東では武蔵野合戦を経て尊氏側が勝利する。
京都では南朝の光厳・光明・崇光の3人の上皇と直仁親王を拉致されるが、義詮らが奮戦し北朝方を石清水八幡宮(源氏氏神の社)に追い詰めて陥落させる。(八幡の戦い
1353年 北朝の再擁立 9月25日後光厳天皇即位
1355年 神南の戦い 南朝・足利直冬との戦い。足利尊氏・義詮らが勝利する。
1358年 尊氏死去 直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第にて死去



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