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足利の石垣


 板倉の養源寺にある石垣


三宝院の石垣と逆川


法玄寺前の逆川


徳正寺の石垣


樹覚寺前の逆川

5.室町時代・関東の戦乱(衰退する足利氏)

足利義満開基・光明寺 幻想的な迎え火の風景

■ 源氏一門の争い
 戦国時代は「応仁の乱(西暦1467年〜1477年)」から始まると言われますが、南北朝時代を経て地方に武力があふれ、室町時代全期を通して兵乱の尽きる事はありませんでした。
 中でも同じ血筋にありながら宿命的に反目しあう「源氏の血筋」は、多くの戦の火種となり、足利氏発祥の地である「足利」は、室町時代中期以降、室町幕府と鎌倉府そして尊氏・直義の母方の一族である上杉氏という一族近親三者による骨肉の争いの焦点となりました。
 皮肉にも「足利」の地は、足利を歴史の舞台へと登場させた足利氏が、歴史から忘れ去られるまでの間、その争いの渦中に置かれる事になりました。
 ここでは、「上杉禅秀の乱」に始まり「上杉氏の越後国失陥」までの百年、関東における足利氏の権威失墜の過程を3つの時代に分け、各時代の主役にスポットを当てて見て行きたいと思います。

鎌倉府とは(関東統治の政務機関)

 鎌倉府は、南北朝時代の初期(西暦1333年)、足利直義が成良親王を奉戴して鎌倉に下り創設した鎌倉将軍府が起源となります。その主な目的は地域の統治機関としての役割でした。
 その後、西暦1335年に中先代の乱により鎌倉将軍府は消滅しますが、西暦1336年に足利尊氏により室町幕府が開かれると、新たな関東統治機構として、嫡嗣・足利義詮を首長とし、執事に上杉憲顕、高師冬の両名を配した統治体制が開始されます。
 しかし西暦1349年の観応の擾乱(西暦1349年〜1352年)の勃発に伴い、幕府内で足利直義が失脚すると、直義の役務を代行するために義詮は京都に呼び戻され、代わりに弟・基氏が鎌倉に下向し初代鎌倉公方を称する事となります。このときを、鎌倉府の成立とする場合が一般的です。
 幕府は他にも「九州探題」、「奥州探題」などの地方統治機関を設置しています。それらの組織は、在地武士団との間に主従関係を結び、軍事動員力を有していました。このような地方分割統治の体制は室町時代の特徴で有り、同時に危うさの象徴でも有りました。

鎌倉府と室町幕府による関東の二重統治

 制度上、関東(坂東)の統治は鎌倉府(地方政府)の長で在る鎌倉公方に執行責任と権限がありましたが、室町幕府(中央政府)は、鎌倉公方を補佐する為に「関東管領職」を設け、将軍の家臣をその任に当たらせます。その結果、関東管領は「鎌倉公方を補佐する室町将軍の家臣」という複雑な従属関係となります。これが後の戦乱の原因ともなりました。
 関東管領職は当初、上杉氏の他、斯波氏、畠山氏などがその任についていましたが、観応の擾乱に際して上杉氏は足利直義派に属した事から、尊氏により外されています。しかし、尊氏の死後、将軍足利義詮と鎌倉公方足利基氏は周囲の反対を押し切り、上杉憲顕を関東管領に復職させ、やがて関東管領職は上杉氏の世襲となります。

1358年 初代室町将軍 足利尊氏 死去
1361年 畠山国清の失脚 畠山国清は伊豆国に逃れるも討伐される
1362年 岩殿山合戦 宇都宮氏綱が守護職を剥奪される。
1363年 上杉憲顕の復権(1362年ともされる) ※ 上杉氏は尊氏に叛した事で失脚していた。
1367年 初代鎌倉公方 足利基氏 死去
二代室町将軍 足利義詮 死去
1368年 足利・東光山善徳寺
    開山:仏満禅師、開基:足利尊氏
武蔵平一揆勃発
仏仏満禅師(大喜法忻)により、足利・東光山善徳寺の開山が行われる。
宇都宮氏綱が反乱を起こすも鎮圧される。
1369年 三代将軍 足利義満  鑁阿寺に下野国喜連川を寄付
1371年 南宗継 死去 足利・名草を領し、樺崎寺五輪塔に名を残す。
1376年 足利・行道山浄因寺再建
    三代将軍 足利義満が支援する。
鑁阿寺で出家し、大喜法忻に師事した偉仙方裔が足利・行道山浄因寺を再建する。

 上杉氏により関東管領職が独占されるようになった西暦1363年以降、関東では比較的平和な時代が続き、足利においても善徳寺が開かれ、足利義満の支援により浄因寺も再興されています。この浄因寺の麓にある光明寺は足利義満開基、仏満禅師(大喜法忻)と伝わる事から、同時期に創建されたのでは無いかと考えられます。
 その頃、中央政府(室町幕府)では守護同士が対立し、西暦1379年には管領・細川頼之が失脚する「康暦の政変」が発生します。足利氏満はこの機に中央進出を図ろうと挙兵しますが、上杉憲春が死を賭して諌めた事(諌死)により思い留まります。
 なお、足利氏満挙兵に当たり、旗揚げの地としたのは足利で有ったと伝わります。

1379年 康暦の政変に乗じて鎌倉公方・氏満が挙兵上洛を画すも、上杉憲春の諌死を受けて中止 ※ 上杉憲春の諌死
1380年 〜1382年 小山義政の乱
1386年 〜1897年 小山若犬丸の乱 鎌倉公方・氏満、鑁阿寺に武州戸守郷を寄進
1387年 小田氏の乱
1392年 南北朝合一 義満は鎌倉公方・氏満に陸奥・出羽統治を委任
1394年 三代室町将軍 足利義満 出家
1395年 九州探題・今川貞世(了俊)罷免される。 ※ 難太平記の作者
1398年 二代鎌倉公方 足利氏満 死去

 鎌倉公方・氏満は治世の間に、宇都宮氏をはじめ新田氏や小山氏、小田氏、田村庄司氏など鎌倉府に敵対する氏族を次々に討伐しています。特に西暦1380年に始まる小山氏との戦いは、足掛け17年にも渡って徹底的に行われ、名門小山氏の嫡流は途絶える事となります。
 この時、小山氏から奪い御料所(直轄地)に編入した太田荘や下河辺荘の存在が、後の鎌倉公方の古河遷座を可能にしたと言われています。

1399年 三代鎌倉公方・満兼が応永の乱の首謀者・大内義弘に呼応し挙兵、上洛を図る。 上杉憲定が諌止し、上洛は中止される。
1407年   鎌倉公方・満兼、鑁阿寺諸堂を補修
1408年 三代室町将軍 足利義満 死去
1409年 三代鎌倉公方 足利満兼 死去
1410年   上杉憲実 誕生
1416年 上杉禅秀の乱 この乱まで足利は鎌倉府統治下にあった
1417年 室町幕府・足利荘に代官を派遣する  
1418年 上杉憲実 関東管領職となる 足利は幕府直轄・代官時代

■ 足利氏と上杉氏の血縁関係

● 足利氏の宗廟の地「足利」

 足利氏発祥の地「足利」は、室町幕府、鎌倉府のいずれにとっても疎かに出来ない本願地です。当初、鎌倉府の管轄地となって居た足利は、室町幕府、鎌倉府、上杉氏、長尾氏と統治者を変遷させてゆきます。その発端となるのは西暦1416年の「上杉禅秀の乱」と呼ばれる反乱でした。

 観応の擾乱の終息から上杉禅秀の乱までの64年の間に鎌倉公方は、二代・足利氏満、三代・足利満兼と移り変わり、上杉禅秀の乱の勃発当時は、四代・足利持氏の代にあたります。
 その間、関東の地は比較的安定した時代であったようですが、ひとたび都で政変や乱が起きると、鎌倉公方は政権奪取の野望を露わにさせていました。

・ 西暦1379年の康暦の政変
  足利氏満が上洛を志し、足利に進軍したのち兵を引いたと記録されます。
・ 西暦1399年の応永の乱
  足利満兼が討幕の兵を上洛させようと足利まで兵を進めています。

 氏満、満兼の両者とも足利を挙兵の地に選んでいます。これは足利氏の宗廟を祀り、戦勝祈願の為であったのか、足利氏としての自らの正統を主張し諸侯の同心を促す為であったのか不明です。地理的に今川、斯波などの親幕府勢力の所領のある東海道を迂回し、東山道もしくは北陸道経由で上洛する為に足利が好都合であったという側面も有るかも知れません。
 いずれにしても「足利」の地が、足利氏の一族にとって重要な意味を持つ地で有ることを伺わせるに十分な事実です。足利は上杉禅秀の乱の後、幕府の直轄支配地となります。

関東における「室町幕府権威の代行者」 上杉憲実


● 西暦1415年「上杉禅秀の乱」〜西暦1423年「小栗満重の乱」と鎌倉府による足利占領

 西暦1409年、第三代鎌倉公方足利満兼の死去により持氏が第四代鎌倉公方に就任すると、まだ幼い鎌倉公方は、関東管領に就任した上杉氏憲(犬懸上杉家)の補佐を受ける事となりました。しかし成人した持氏は次第に氏憲と対立し、氏憲は西暦1415年に管領職を辞任します。
 翌年、氏憲(上杉禅秀)が鎌倉府・足利持氏に反旗を翻します。これが「上杉禅秀の乱」です。
 乱そのものは翌年に鎮圧されますが、元関東管領が主筋である鎌倉公方に弓を引いたという事実は、中世的価値観を揺るがす大事件でした。

 かねてより相互不信の関係にあり、対立していた幕府と鎌倉府でしたが、「上杉禅秀の乱」鎮圧に関しては協力的な立場を取っています。しかし乱の収束後、上杉禅秀に味方した諸侯に対する鎌倉府の過酷なまでの報復措置に幕府は反発し、両者の溝は益々深まることになります。

 上杉禅秀の乱の後、鎌倉府の統治能力に不安を感じた室町幕府は、「足利氏発祥の地」足利を直轄地として代官を派遣します。また関東管領職に就任していた上杉憲基が西暦1418年に逝去したため、代わって僅か10歳の上杉憲実(山内上杉家)を管領職に任命します。
※ 管領職は幕府の役職であり、任免権は室町幕府将軍にあります。

 西暦1423年、京都扶持衆(室町幕府将軍と主従関係を結んだ関係)である小栗満重が、「上杉禅秀の乱」の戦後措置に対する不満から鎌倉府に対して反乱を起こします(小栗満重の乱)。この反乱の背景には、鎌倉公方・足利持氏と室町幕府将軍・足利義持との対立がありました。
※ 小栗満重の乱において、上杉憲実は小栗城を攻め落とす戦功をあげています。
 足利持氏は小栗満重の反乱鎮圧後、反乱に同心したとして、同じく京都扶持衆にあった宇都宮持綱や桃井宣義をも滅ぼし、更に以前から不満を抱いていた「幕府による足利荘の直轄統治」を解消する為、足利荘の代官を追放し、幕府への対抗姿勢を鮮明にしました。
※ 国立国会図書館所蔵「足利庄鑁阿寺」によれば、高一族の末裔・南氏の所領、名草郷を持氏が鑁阿寺に寄進したとあります。年代は明記されておりませんが恐らくこの当時の事と推測されます。

【関東ならびに足利に関係する出来事】

1418年 上杉憲実 関東管領職となる 足利は幕府直轄・代官時代
1422年 小栗満重の乱 上杉憲実、小栗城を陥落させる
1423年 鎌倉府(足利持氏)足利荘を制圧 幕府代官を追放
1428年 足利持氏 鑁阿寺に名草郷を寄進  一切経会料として上州橋本郷も寄進

● 上杉憲実による室町幕府と鎌倉府の調停活動

 上杉憲実は関東管領として室町幕府と鎌倉府の間に立って両者の調停に腐心します。そして、西暦1431年に両者間で和議が成立し、翌年、鎌倉府が横領していた足利等の所領を幕府に返還します。
※ 足利学校の歴史で上杉憲実による中興と記されるのはこの年の事です。鎌倉府から返還された足利荘が上杉氏の管理下になったと推測されます。
※ この時期の足利の中心地は岩井山の北側辺りで、善徳寺も足利学校もその地にありました。

● 上杉憲実と鎌倉公方・足利持氏との関係悪化(永享の乱)

 西暦1438年、上杉憲実と鎌倉公方足利持氏との関係が悪化します。
 憲実は管領職を辞して上野国平井城に逃れます。(上杉氏は越後・上野両国の国守)
 永享の乱は上杉憲実を討伐しようと足利持氏が軍を発したことから始まります。
 対する憲実は室町幕府の派遣した軍勢と共に足利持氏と戦い、持氏を圧倒します。憲実は主筋であった持氏の助命嘆願を幕府に願います。しかし、幕府はこれを聞き入れず持氏は自害してしまいます。ここに鎌倉府は一旦滅亡します。
 その後更に憲実は、結城合戦においても持氏の遺児を追い落とすことになります。
 ※ 上杉憲実は持氏並びにその遺児に背いたことを悔いて関東管領職を辞しています。

 上杉憲実は、次の関東管領職に上杉清方を指名していましたが室町幕府はこれを認めず、公式には関東管領職は暫く空位の期間が続きました。そして鎌倉府が生き残っていた持氏の遺児により再興されると、西暦1447年に憲実の子・憲忠が関東管領職を継ぐことになりました。
※ 上杉憲実は子供らに「公方の恨みを買うから決して管領職に就いてはいけない」と、言っていました。その忠告に逆らい関東管領職に就いた憲忠を厳しく叱責し、義絶してしまいます。

【関東ならびに足利に関係する出来事】

1431年 鎌倉府と幕府が和解  
1432年 上杉憲実が足利学校を再建する。
同年、西暦1407年から行われていた鑁阿寺の大修理(改造)が完了する。
※ 足利学校は、当時、足利荘勧農(現在の岩井町)にあり。
鎌倉府が幕府の所領を返還(足利返還)
1438年 永享の乱 上杉憲実・上野平井に退去
1439年 鎌倉府滅亡 足利持氏 死去
1440年 結城合戦 上杉憲実・一時管領職に復帰する

● 上杉憲実の残したもの

 上杉憲実は遠く長門国の大内氏の元で西暦1466年に死去しました。

 憲実は儒教を学び、足利学校や金沢文庫などの古より続く文化施設の復興に尽力しました。現在も足利市では、「足利学校を再興した人物」と宣伝されています。
 武芸にも秀でていた様な記載もありますが、その実績はどちらかと言うと文官・政治家的な要素が目につきます。
 越後守護・上杉房方の三男として生まれ、僅か10歳で伊豆・上野守護職と第十四代関東管領に補任されました。守護職も管領職のいずれも幕府より与えられた職でありながら、憲実が仕えた主は鎌倉公方・足利持氏です。現代風に言えば「出向役員」とい立場です。
 ゆえに幕府と鎌倉府の間で問題が発生すると、憲実は幕府の立場で主君に譲歩を求めるという苦しい立場に立たされます。儒教を学び忠義を重んじる憲実にとっての不幸は、二君に仕え、その両者が相容れない関係であった事に他なりません。
 西暦1438年、ついに憲実は持氏に命を狙われ上野国に退去する事になります。永享の乱のはじまりです。結局、永享の乱は幕府の介入により持氏の死を以って終わります。

 憲実の「理性」としては、あくまでも幕府第一であり、幕府あっての上杉氏、幕府あっての鎌倉府、幕府あっての秩序と平和、と考えていたに違い有りません。しかし身近に接し、共に政を執り行ってきた鎌倉公方・持氏を死に追いやった事は人として苦しい出来事でした。

 この後、憲実の子孫・関東管領も、鎌倉公方の子孫も、幕府でさえも「理性」など考えることもなく、恥知らずな戦いを繰り広げます。
 憲実の苦しみは、この時代最後の「理性」の輝きであったのかも知れません。
 後世「主殺し」という汚名さえ着せられる憲実ですが、「秩序」を重んじ、「情」に流されること無く、主君である幕府将軍に忠誠を示した行動は「官僚」の手本とも言えます。
 日本の歴史は、どうしても情に流され客観的妥当性を軽視する傾向がありますが、幕府が「法」であり、鎌倉府が「機関」である以上、その鎌倉府の専横は反逆であり、処断されて然るべきです。

戦の天才「上杉氏の救世主」 太田道灌


● 三十年戦争 (西暦1454年「上杉憲忠暗殺」〜西暦1483年「都鄙合体」まで)
  享徳の乱の始まり

 上杉憲実が隠遁し、放浪のたびに出てから数年後、西暦1446年に足利持氏の遺児・足利成氏により鎌倉府が再興され、同時に関東管領職には上杉憲実の一子・上杉憲忠が就任する事となりました。
 しかし、室町幕府の下部組織として押し込められた鎌倉府は、幕府への申入れ一つさえ上杉憲忠の副状を必要とする状況で、鎌倉公方・足利成氏の中に上杉憲忠に対する不満が鬱積します。
 西暦1454年、ついに足利成氏は上杉憲忠の誅殺を実行します。この事件を発端として上杉一族(室町幕府)勢対鎌倉公方勢力との戦い「享徳の乱」が幕を開けます。

 初戦の「分倍河原の戦い」において上杉側は大敗し、更に逃げ落ちた小栗城も陥落させられます。
 しかし越後から来援した上杉氏の援軍と小栗城から逃げ延びた敗残兵は、足利の只木山(現在のあしかがフラワーパーク並びに白鴎大学高等部・富田キャンパス所在地)から佐野の中心地の天明(佐野駅西)にかけて布陣し態勢を立て直し対抗します。

 やがて幕府の命により侵攻してきた今川範忠の軍が鎌倉を占領すると、本拠地を失った鎌倉公方・足利成氏は拠点を古河に移す事になりました。この後、成氏は古河公方を名乗り、下野、下総、常陸を勢力圏とします。
足利荘は古河公方の勢力下に収まります。

 一方の上杉方も関東管領職を憲忠の弟、房顕が継ぎ、上野、武蔵、相模などを支配し、以後、利根川を挟んで古河公方方の諸勢力と対峙する事になります。
※ 両者の間で戦いが繰り広げられたのは、「両毛」と呼ばれる地域(下野国と上野国に跨る地域という意味)です。 現在の地名で、足利市の他に桐生市、田市、館林市、佐野市の5市を含みます。 両毛地域は、北に山地が広がり、西から南に利根川、中央から東にかけて渡良瀬川水系の河川に囲まれます。 これらの河川が合流する水上輸送の要地が古河です。 五十子陣 (現在の埼玉県本庄市)は、この両毛地区を挟んで古河の西に対峙していました。
 尚、当時の関東平野は古河から南に江戸湾に至るまで利根川の氾濫原が広がり、陸上交通における難所となっていました。その為、両毛地域および古河は、関東西部から東部(下野東部、常陸、上総、下総)方面に向かう場合に必ず通る陸上交通の要地でもありました。

 膠着状態に見えた戦局は、岩松家純の画策により、新田荘域(現在の太田市)を支配していた岩松氏一族が上杉方に寝返った事から、にわかに上杉側有利の形勢となります。そこで上杉方は攻勢に転じます。
 太田庄(現在の熊谷市〜館林市の間)の戦いはそうした背景のもとで行われました。しかし結果は上杉側の惨敗に終わります。その後上杉氏は五十子陣(現在の本庄市)まで後退し、西暦1476年までこの地を中心としてふたたび戦線はが着状態に陥ります。

1466年 鎌倉府再興 足利成氏が関東公方に就任 
関東管領は上杉憲忠
1450年 江ノ島合戦  
1454年 享徳の乱勃発 関東管領・上杉憲忠暗殺
1455年 1月 分倍河原の戦い
足利城の戦い
4月  天命(天明)の戦い
6月  只木山の戦い
只木山の陣でも12月に上杉側敗北
※ 上杉側の敗北
足利市西宮町両崖山
佐野市天明
足利市多田木
足利成氏 古河に移る(鎌倉失陥)
1457年 渋垂城の戦い 足利市上渋垂町
1458年   岩松氏 上杉氏に帰順

● 両毛地域における情勢変化と戦乱

 直接戦闘においては勝利に乏しい上杉勢ですが、政略的には有利に戦いを進めます。
 五十子陣での対陣が長引く中にあっても、両毛地域において岩松氏を帰順させ、後には桐生佐野氏も帰順させ、古河公方側への圧力を強めて行きます。そして西暦1465年に山内上杉氏の家宰職を歴任する長尾家の一族(鎌倉長尾氏)長尾景人を足利の代官として勧農城に入れる事に成功します。
※ 景人の入城当時、渡良瀬川を挟み南に位置する新田荘域・岩松氏は上杉側に属していましたが、東に位置する佐野氏、西に位置する桐生佐野氏は、共に古河公方に属しており、また足利の東部の諸城(八椚、春日岡、只木山、赤見、樺崎)も佐野氏の勢力下に有りました。長尾景人の入城した勧農城は、それら敵対勢力に打ち込まれた楔の最先端に位置していました。 


長尾景人が築いた岩井山城の跡

城跡近くから足利市を望む。

長尾氏は後年、岩井山を離れ写真市街地の後ろの両崖山に城を移したとされます。


 長尾景人の勧農城入城時期を境に足利近隣の戦闘が再度増加してゆきます。
 ※ この時期、勧農城下にあった足利学校が戦乱を避けるため現在の地に移転されました。
 西暦1471年、古河公方が小山氏、小田氏などの有力氏族と共に伊豆まで遠征に向かいます。長尾景人ら上杉勢は、その隙を突いて大規模攻勢に転じ、足利東部の諸城を陥落させ、敵方の本拠地である古河城までも占領する大戦果をあげます。
 しかし翌年には古河公方勢の反撃を受け、古河城を失陥し、更に足利にまで攻めこまれて長尾景人は討ち死にしてしまいます。その上、翌年6月に山内上杉家の家宰職にあった長尾景信が陣没し、12月、古河公方方に五十子陣を急襲され上杉政真までもが戦死してしまいました。
 結局、一連の戦いにおいては双方ともに決定的な勝利を収めることはありませんでした。しかしそれらの戦いの中で、長尾景人と長尾景信が命を失った事が、この後新たな混乱の火種となり、最終的には享徳の乱の趨勢を定める事となりました。

1465年 長尾景人・足利代官となる 勧農城入城
1467年 応仁の乱勃発 足利学校が現在の昌平町に移転される。
1468年 勧農城の戦い
小曽根の戦い
足利市岩井町
足利市小曽根
1471年 上杉側→成氏側を攻撃
八椚城の戦い
天命(天明)の戦い
春日岡の戦い
只木山の戦い
赤見城の戦い
樺崎城の戦い
古河城奪取

八椚城の戦い
佐野市天明
佐野市若松町付近
足利市多田木
佐野市赤見町町屋
足利市樺崎町
1472年 古河公方(成氏)の反抗により古河城を失陥 長尾景人足利にて戦死
1473年 12月 古河公方方、五十子陣を急襲 6月  上杉家家宰長尾景信、五十子に陣没
12月 上杉政真、五十子にて戦死


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