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人物像



細川忠興

伊達正宗(母方の最上氏が斯波の血筋)

室町時代繁栄した足利氏族

鑁阿寺 蛭子堂(足利義兼の正室・北条時子が祀られています)

※ 写真は北条時子 (北条時政の娘、源頼朝の正室・北条政子の妹。菩提寺は法玄寺。) を祀るお堂です。
 足利氏の一族を考える時忘れてはならないのは、鎌倉時代以降、代々北条氏の血を受け入れて来た事です。それは足利義兼に始まり、鎌倉時代の足利氏発展と足並みを揃えて続いてゆきます。
 当時の女性の生き方は記録にも残される事も無く、中々現在に伝わる事が有りませんが、その中で文末に示す蛭子伝説など、悲劇ではありますが当時の女性の生きざまを伝える話として重要です。

室町時代に繁栄した足利氏族

 ここでは義国流源氏の子孫が中世の日本史の中でどのような足跡を残したかを記してゆきます。 


●細川氏
 義兼の兄、足利義清の流れとなる氏族です。
 南北朝時代、尊氏に従って活躍し室町時代を通して管領職を世襲する名門の一族です。応仁の乱における一方の首魁でもあり、中世日本を代表する一族です。また現代においても西暦1993年(平成5年)に日本新党から内閣総理大臣となった細川護熙は、名の示す通り細川氏の末裔です。
 余談ですが、細川護熙が総理大臣となった同じ年、衆議院に立候補した足利市在住の茂木俊充氏が初当選した事も、ある意味、歴史的な奇縁かも知れません。


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 細川氏は足利義氏の代に、足利義清の孫である義季が河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川 町)に移り住んだ事に始まります。
 鎌倉時代の細川氏は、他の足利一族に比べると活躍の記録は残されていません。細川氏の祖にあたる義兼の兄・義清が、義仲に従い壮年で戦死して以降、義清の一族は義兼の庇護の元、一家臣として活動する事になりました。
 細川氏が歴史の表舞台に登場するのは、足利尊氏の挙兵に、細川和氏頼春、また、その従弟の顕氏定禅などが従った事に始まります。
特に和氏と頼春は四国の南朝勢力を討伐し、細川氏が守護大名に成長する道筋を開きました。

 その後の細川氏は、管領職を歴任し、応仁の乱から始まる戦国時代を常に覇者の側で生き抜き、平成の時代までその家名を残しています。なお、一族から細川勝元、細川 藤孝、細川 忠興とその妻ガラシャなど著名な人を輩出し、日本史の一翼を担います。


●畠山氏
 畠山氏は坂東平氏の一族、秩父重能※1が武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山周辺)に所領を得て畠山姓を称し、後に足利義兼の子、義純が畠山氏に婿入りして家督を相続した事で源姓となります。
 治承・寿永の乱に於いては、畠山重忠が頼朝側として活躍し、足利義兼同様に北条時政の娘を娶りますが、その後、幕府の重鎮・北条時政と対立し、重忠は二俣川の戦いで敗死してしまいます。
 義純は、その畠山重忠の未亡人を娶り※2、源姓として畠山氏を存続させる事になりました。


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 鎌倉時代の畠山氏は、足利一門の中では斯波家に次ぐ高い序列に列せられ足利宗家から厚遇されます。
 その後、足利尊氏により室町幕府が設立され畠山氏は越中・河内・紀伊の守護職に任じられますが、観音の擾乱の中で嫡流が滅び、畠山国清の家系が惣領格になります。
 そして国清は失脚した上杉憲顕に代わり関東管領職に就きますが、鎌倉公方・基氏と対立し没落します。
 畠山家は国清の弟・義深が継ぎ、その子・基国は室町三代将軍義満の元で活躍し、管領職に補任されます。
 しかしその後、畠山家では一族の内紛(畠山義就と畠山政長との家督争い)が発生し、それはやがて応仁の乱に繋がる事になります。

※1 秩父重能は、大蔵合戦において新田義重と共に源義朝、義平陣営で戦います。そして源義賢と共に叔父である秩父重隆を討っています。
※2 畠山氏に入り婿する時点で、足利義純は従弟である新田義兼の娘を妻としていました。
その妻子を義絶して畠山重忠の寡婦を貰い受け畠山氏を相続します。尚、その義絶した子は、岩松姓を名乗り、南北朝時代の終わりに新田宗家が断絶すると、宗家の家督を相続します。


●斯波氏
 足利義兼の孫・泰氏の嫡男として生まれた家氏が、陸奥国斯波郡(現在の岩手県盛岡市の一部及び紫波郡)を所領として家祖となります。(家氏は生涯斯波姓は名乗りません。※1


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 家氏は長男で有り、当初、家督継承者とされていましたが、父・泰氏が北条得宗家(時氏)の娘と婚姻する事になり家督継承者の地位から外されました。※2
 そうした経緯もあり、斯波家は足利一門内では別格の家柄として扱われます。(但し、鎌倉時代を通して斯波姓は名乗りません。)
 足利家氏(斯波家氏)は鎌倉幕府内においても活躍し、北条一門からも重用されます。また、泰氏の嫡子・頼氏が病弱で早逝し、続く家氏も幼少であった事から、家氏が足利一門の棟梁として活動します。

 南北朝時代になると、足利高経(斯波高経)は足利尊氏と行動を共にし、新田義貞を討つなどの戦功を挙げます。尊氏の死後は、管領職※3に就き、一族を幕府内の要職に就けて指導体制を確立してゆきます。
管領職には細川氏、畠山氏と共に交代で就任するようになり、斯波氏はその中の筆頭とされました。
 尚、斯波氏の本貫の地である奥州にも、足利(斯波)高経の長男や弟らが下着し奥州斯波氏となって行きます。その一族の中でも、大崎氏と最上氏は奥州探題の職を歴任します。
伊達正宗の母もその最上氏の出であり、つまり伊達正宗も義国の子孫となります。

※1 家氏が斯波の姓を名乗らなかったのと同様に、足利氏初代とされる足利義康も足利義康と自称する事は無かったという説も有ります。本家の名跡が大きい場合には良くある話だそうです。
※2 家氏の母は、名越朝時の娘であり北条一門ですが、家格の上では得宗家の下となるので側室に移ったとも言われます。その結果、家氏も庶子の扱いとなります。
※3 代々将軍補佐職であった「執事」が家臣の役職である事から、高経は就任を拒んでいました。その妥協策の形で管領職が出来たようですが、正確な日時・背景は確認できていません。


●吉良氏
 吉良氏は、足利義兼の孫・足利義氏の側室の長子・長氏が、三河国幡豆郡吉良荘(現・愛知県西尾市)を本貫として吉良氏を称したことに始まります。 一般に”ながうじ”と読まれるますが正しくは”おさうじ”であると、長氏の子、吉良満氏が創建した実相寺(西尾市)代々の住職には言い伝えられています。
 吉良氏は三河国内に広がる足利氏一門の中でも指導的な立場にあったと言われています。
 長氏についての吾妻鏡の記述は西暦1241年を最後に消えており、鎌倉から所領である三河国吉良荘に移ったと考えられています。晩年は吉良荘内の今川または竹崎に隠居したと言われています。


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 鎌倉時代末期、足利高氏(高氏)が鎌倉幕府の命により楠正成らの討伐の為に上洛する途上、吉良貞義を交えた軍議の席で幕府への離反を宣言します。ここで意見を求められた貞義が、「決意は誠に目出度い、むしろ決断が遅過ぎると思った」と答えた事に高氏は自信を得たと伝わります。
 しかしその後の南北朝時代、室町時代を通じて吉良氏の名前は歴史の中心で呼ばれる事は少なく、遠く江戸時代になって、赤穂浪士の討ち入り先、吉良上野介の名前で脚光を浴びる事になります。
 
 尚、吉良氏には、義氏の四男である義継を祖とする奥州(東条)吉良氏も存在しています。 

三河吉良氏(西条吉良氏)
長氏 西暦1211年〜1290年 足利氏の家督継承者としての地位を伝える。
  - 満氏 西暦 未詳 〜1285年 霜月騒動で横死している。
  - 国氏 西暦1243年〜1282年 満氏の弟、別項にある今川氏の家祖。
貞義 西暦 未詳 〜1343年 満氏の死によって吉良家を相続する。尊氏挙兵に賛同している。 
満義 西暦 未詳 〜1356年 尊氏の挙兵に従い活躍する。

奥州吉良氏(東条吉良氏)/何れも生没年不詳
義継 東条吉良氏の祖。吉良東条に移り住んだためにそう呼ばれるらしい。
経氏 義継の出家により家督を相続した。(西条吉良氏・満氏の子との説もある)
経家 奥州二本松に移り住んだという説があるが否定されている。
  - 貞家 南北朝時代、足利氏と共に活躍する。奥州吉良家の初代とされる
  - 貞経 貞家の弟。南北朝時代、貞家と共に足利氏と共に戦うが、甥である満家の没後、一族内で
     勢力争いを引き起こし、奥州吉良氏の滅亡の要因となる。
満家 奥州吉良家の家督を継承するが、西暦1353年頃早逝したと考えられている)
持家 奥州吉良家は一族内の争いにより持家の代で消滅。


●今川氏
 前項で説明した吉良長氏の子、国氏※1が、吉良長氏の隠居地(現在の愛知県西尾市今川町周辺)を相続して今川氏の家祖となりました。
 今川氏は鎌倉時代には地方の小領主でしかありませんでしたが、南北朝時代、早くから足利尊氏と行動を共にし様々な戦いで活躍し頭角を現してゆきます。
※1 国氏については、吉良長氏の子と云う説(Wikipedia)と、足利義氏の孫(有氏の子)を長氏が養子にしたという説が有ります。本項記載の家系図は後説に従って記述しています。


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 南北朝時代、尊氏方に属した今川氏の一族は各地で戦功を挙げ、今川範国が戦国時代まで今川氏の本拠地となる、遠江国、駿河国の守護に任じられます。
 この範国の弟が今川大喜法忻和尚であり、足利の善徳寺、光明寺の開山となる人物です。(更にその弟子は浄因寺の中興開山となります。)
 範国の家督は、今川範氏が相続しますが、兄弟である今川貞世(今川了俊)の方が文武に於いて有名です。
 貞世(了俊)は、足利義満の時代に九州平定に抜群の功績を挙げて九州探題に任じられます。
 晩年は九州探題の職を解任され、反乱の嫌疑を掛けられ引退し、有名な『難太平記』を執筆しました。

今川の子孫
国氏(吉良長氏の子) 西暦1243年〜1282年
  - 基氏 西暦1259年〜1323年)遠江国引間荘に移住(現在の浜松市)
  - 常氏 国氏の次男:徳川家康の正室・築山殿の実家である関口氏の祖先
基氏(前記)
  - 頼国 長男:西暦1335年の中先代の乱で戦功をあげるも後の戦いで戦死する
  - 範満 次男:戦死
  - 頼周 三男:戦死
  - 法忻 四男:仏満禅師 足利尊氏の命により足利の善徳寺光明寺の開山となる。
  - 範国 西暦1295年〜1384年(基氏の五男) 尊氏と共に討幕の兵を起こし中先代の乱などで戦う。
範国(前記)
  - 範氏 長男:西暦1316年〜1365年 家督相続するが父・範国と弟・貞世の陰に隠れて存在が
     薄い。
  - 貞世 次男:文武に秀でており、足利義満の時代に九州探題として九州平定を成し遂げるが突如
     解任されてしまう。晩年は今川了俊と呼ばれ『難太平記』の作者として有名である。

 戦国時代、駿遠三(駿河・遠江・三河)の太守と呼ばれ、上洛戦の最中、織田信長の奇襲により田楽狭間で討たれた今川義元の家系です。 この今川氏の支配域は、鎌倉以降の足利一門の支配地に重なり、一門の連枝が数多く土着してている土地です。後にこの領域は徳川氏の支配地となりますが、土着した足利一門連枝の子孫も徳川譜代の家人となり、徳川武士団を構成する事になります。


足利一族の家系図


 

参考文献


蛭子伝説

※ 法玄寺にある蛭子塚の案内板より
北条時子は時政の娘にして足利義兼の正室なりき。 義兼鎌倉出府の折、春の一日を郊外に遊べり、そのおり老女藤野の組む水を飲みしところ、日を逐い腹部膨満せり。 折しも足利の館に足利又太郎忠綱が滞在し藤野と通ず。藤野は義兼に、時子が忠綱に密通せりと虚偽の報告をなせり。
義兼の疑が晴れざる故、時子は「死後わが体を改めよ」と遺言して自害せり。
時に建久七年六月八日。
時子の遺体を検するに、腹部に蛭の充満せるを発見、郊外散策のおり飲みし水の故と推定さる。 義兼大いに驚き藤野を極刑に処し、時子の遺体を当山の地にねんごろに葬りたり、法号に智願寺殿を贈り、これより当山の院号を智願院と称す。

 ■ 時子の症状について胞状奇胎では無いか言う考え方があります。
 胞状奇胎は現在でも分娩350〜500回に1例程度の割合で発生しているそうです。 当時も胞状奇胎という症状は周知されていたと思われます(”ぶどう子、泡子”と呼ばれていました)。 体内で蛭が増殖する可能性は限りなく0%に近いので、”胞状奇胎”説は有力だと考えられます。 ところで”蛭子”と書いて”ヒルコ”と読んでいますが、一般には”蛭子”と書いて”エビス”と読む事が多いようです。 ”ヒルコ”とは記紀神話に登場する”蛭子(ヒルコ)命”を指します。不具の子に生まれ、誕生後すぐ流されてしまいます。 しかし、後に戻って来てエビス神として信仰されるようになった…と、言われています。復活・再生の神話とも言われます。そうしたエビス信仰がはじまるのも鎌倉時代以降の事です。
 時子の病状からこのような伝説が生まれたのかも知れません。しかし、それより単純に、義兼が病に斃れた時子を悼み、浄土での安穏を祈願して建てられたお堂と受け止める方が、私達も幸せな気持ちになれるのでは無いでしょうか?
 
 ■ 藤野の処刑方法は、車裂きとも牛裂きとも言われる残虐な処刑であったそうです。
 
 ■ 足利又太郎忠綱が滞在という記述は重要です。
「蛭子伝説」には続きがあり、その足利忠綱は義兼一党に赤雪山に追い詰められて自害したと言われています。 問題は、その時、足利忠綱が足利に居た事です。通説によれば野木宮合戦に敗れた後、山陰道を経て西海へ赴き消息不明となったと言われています。 他方、西暦1185年に『吾妻鏡』文治元年4月15日条に「兵衛尉忠綱」という名前が見られ、足利忠綱ではないかという説もあります。 いずれにしても、義兼の元に忠綱が保護されていたと言うのであれば驚く次第です。
 

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